ダサいとはなにか ダサいを科学する

デザイナー の方なら一度は作ったものを人にみせたとき「ダサい」と言われた事があるのではないでしょうか。作ったものをダサいといわれると正直イラッときますが、そこには様々な意見が隠されているので今回はダサいを分析してみます。

ダサいを分析 フローチャート

人がダサいと言っているとき、ちゃんと掘り下げると主に以下の様な意見が出てくる事が多いです。

・古くさい
・色が嫌い
・形が嫌い
・自分の趣味と違う
・わかりづらい

など様々です。

ダサいという言葉には多くの意味が含まれていて、じつは見過ごせない大きな気付きがあります。お前の格好方がダサいだろとか言って意見を無視してはいけません。作ったものをダサいと言われたときは真摯に向き合い、是非ダサいの秘密を掘り下げていきましょう。

ダサいを掘り下げる
ダサいと言われた時になにが悪いのか分析するための方法をフローチャートにしてみました。

ダサいのフローチャート
ダサいのフローチャート

単体成立

デザインした物が単体で見ると完成された状態という意味合いです。Webやグラフィックのデザインでレイアウトや色などに問題がなく、訴求したい内容がきちんと伝わる様にデザインされている。ここができてないともはや言い訳の仕様がないというかすいません作り直します、としか言えないです。駆け出しのデザイナーが「できました!」といって見せたときに全然できてなかったりする時にありがちなダサさです。フォント選びを間違えていたりとか、やたら文字が大き過ぎたり、線が太過ぎたり、細過ぎたりするとよくダサいと言われがちです。

余談ですが良く『デザインが古くさい』という意見が出て来る事がありますが、これを言われる事が多いのは年配のベテランより若手の方が多いです。これは『古くさい』が実は時代にマッチしていないからではなくバランスがうまくとれてなかったり色使いが稚拙だったりすると古臭く感じるのではと思っています。

環境的成立

デザインした物が置かれる環境が想定できていない場合によくあるダサさでです。例えばポスターなのにフライヤーの様な細かい文字ばかり使っていたり、高級なブランドなのにチープなデザインだったり、逆に庶民的なプロダクトなのにやたら高級感がでてしまっていたりする場合もあります。一時よくあったのは、日本の企業のHPのグローバルナビゲーションがなぜか英語表記というパターンです。英語を使うとかっこいいと思いがちですが、それが逆にダサいと思われるパターンですね。

社会的成立

ここが一番難しいところでしょうか。ダサいと言われた時に上の二つはすぐに原因究明できる事が多いですが、このダサさは時代の雰囲気とかトレンドとか、もしくは担当者の嗜好とか論理化しにくいところで発生する事が多いためです。特に担当者の好きとか嫌いが原因だった場合それを言語化して表現させるのは非常に難しいです。

社会的成立とは

ダサいを分析するフローチャートを作ってみましたが社会的成立は幅が広いので原因究明が難しいかもしれませんが、掘り下げてみるとダサいのメカニズムが理解できる可能性が高まりそうなので掘り下げてみます。

社会的成立が最も問われる事が多いのは公的なデザインだと思います。例えば国立競技場やサッカー日本代表のユニフォームなどです。
これは評価する人間が発注者ではなく不特定多数で、ストライクゾーンのレンジが非常に狭く、かと言って万人受けするデザインにすると全く面白くないデザインになってしまいます。さらに評価者が発言する事にコストが少ないので発言はストレートになりがちです。その結果ユニフォームなどが発表された際に必ず出てくる反応が「ダサい」です。

2020ユニフォーム
※2020日本代表ユニフォーム。adidas HPより転載。

このユニフォーム、Twitter上などで「ダサい」という意見が多くでていました。ぼくはほとんどサッカーを見ないので今までのユニフォームがどんな感じだったのか、あまり記憶にないのですがなんとなく青一色だったイメージでした。たしかに今まで持っていたユニフォームに対するイメージからすると2020のユニフォームは違和感があります。改めて過去のユニフォームを見てみるとディテールは結構変わっていますね。ちなみにぼくの日本代表ユニフォームのイメージで一番残っているのは2010-11の「革命に導く羽」でした。

ユニフォーム集合
※歴代のユニフォーム。adidas HPより転載。

見返してみると個人的にはこの2010のユニフォームが好きでしたが、探してみると2010のユニフォームに対してもダサいという声が過去にあったりして笑、とくに今回が今までと違うからダサいと言われているだけでもないようでした。

ユニフォーム
※2010-11ユニフォーム。adidas HPより転載。

ぼくが新しいユニフォームに対して感じた事はあまりダサいもダサくないもなく、そもそもサッカーに興味があまり高くないので正直どちらでも良いという感覚です。
で、あらためてユニフォームや公的なデザインがよくダサいと言われてしまうのはなぜかと考えると、意見をしている人が自分事と捉えているからなのかなと思いました。

例えば、ぼくの場合このユニフォームをみても自分で着るわけではないし衣装としてみているので、まあこういう派手なのものありなのかなぐらいで考えてしまいますが、もし自分が何かのタイミングで着る立場だったら正直あまり着たくないと思ってしまいます。それは自分の趣味とあまりにも違うからです。

サッカーが好きな人は応援するときや普段も着るかもしれないし、自分で着るなら自分が普段着ている服とのギャップが無い物の方がイメージつきやすいのだと思います。多分ユニフォームのような特殊な服と一般の人の普段着るような服のイメージはほとんど合う事がないのでダサいという結論に至りやすいのではと思います。

評価コストが少ないと趣味嗜好で判断

さらにダサいという意見の表明にはほとんどコストがかかりません。実際のクライアントワークだと発注者と制作側で関係性があったり、やり直しにコストがかかる事もあるのである程度慎重に発言しますが、ユニフォームの場合はTwitterで一言呟くだけでよいのです。人は評価にコストがかからない時は自分の趣味嗜好で判断しがち、というかほとんどの人は一言添えられただけのコンセプトと成果物のビジュアルだけで全てを評価するのでそうなるのはしょうがないです。

このユニフォームが本当にダサいのかどうかは改めて見てもよくわかりません。視覚的に完成しているかといえばある一定ラインは当然到達していると感じるので、そこから先の説明がつかないからです。ロジック的にあまり上手くいってないとあえていうなら胸の国旗などのマークが見辛いのはいただけないという事ぐらいでしょうか。

ダサいと言われないためには

一言でダサいといっても色々な意味が含まれていたりいなかったりします。視覚的に成立していなかったらそもそも話にならないし、デザイナーはデザインが使われる環境特性を理解するべきです。ただ評価者のそれまで生きてきたバックグラウンドや、評価者がすぐに無数の多数になる現代において全ての人に向けたデザインを成立させるのは不可能に近いです。

それでもダサいと言われないデザインを作るためには『世界観』を作るところに行き着くのかなと思います。単品のデザインで全てを表現するのではなく見ている人をファンにさせるストーリーやサービス全体で価値を作っていく。それを実現している一例はディズニーランドです。ディズニーランドに行ってわざわざ演者の衣装や販売している商品やグッズの事を、声高にダサいと言う人はいないわけで、それはディズニーランドはこういうものだという前提を共有した上でチケットを買ってみんなが楽しみ、膨大なファンをつくっているからです。

無難に無難を重ねたようなデザインを作って安全に寄せるのではなく、世界観を作り込み、その世界に世の中を巻き込んでいくようなダサいと言われないデザイナー を目指したいですね。

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