これは2012年に投稿された記事を加筆・修正し再掲したものです。
最近、各所で「デザインの敗北」と称してお店の什器や設備にテプラや手書きなどで日本語サインが追加された写真がアップされているのを目にします。
デザインの敗北序章
皮切りは佐藤可士和さんデザインのセブンイレブンのコーヒーメーカーではないでしょうか。
このような「デザインの敗北」と呼ばれている現象に関しては、一末端デザイナーとしては心を痛めており昔から感じていたものの一番強くそれを意識したのは下記写真のサインを見たときです。
2012年渋谷にヒカリエという商業施設ができたときすぐにJRの連絡通路に貼られた看板です、おそらくJRの駅員が毎回聞かれるので自分で作って貼ったのではと思うのですが、もちろんヒカリエのトンマナ無視、わかればいいという感覚がとても伝わってきます。
本当に負けているのか?
そもそも「デザインの敗北」と言われている現象ですが本当に単純にデザインの敗北なのかと考えさせられます。
「デザインの敗北」は対象物の見た目でコミュニケーションを完結させることを前提に話をされることが多いですが、見た目をデザインする事とそこに発生するであろうコミュニーケーションまでを含めデザインすることは別だからです。さらに言えば日本人がコミュニケーションに対して持つ素養の変容や美意識に対する意識の低下まで考えなければデザインの単純な敗北と決定づけてはいけないと思います。
私は仕事柄、ウェブ上ではなくリアルの消費者に近い現場でデザインの仕事をする事が多く、人がサインや商品を見たときにどう感じどう反応するかを議論することが多いのですが、そこで感じるのはサインで全てを伝えようとする日本の文化です。
現場で働く人の手間を省くこと、顧客側のもっとわかりやすくしてという要望、その背景には日本人の直接のコミュニケーションを避ける感覚や情報を取りに行こうという意識の欠如、勘違いした安全神話が感じられます。
上記内容に関しては、アレックス・カーの「ニッポン景観論」でも似たような言及と事例の紹介があります。
ヨーロッパに行くとインフォメーションの圧倒的な少なさとそれでもきちんと機能する「大人の」文化に驚きます。特に駅などは本当に情報が少ないです。イタリアに行った時には全てのホームについているすべての時計の時間がそれぞれ微妙に違うのにびっくりしました。日本であれば、すぐにわかりにくいからなんとかしろとすぐにクレームが入ると思います。地下鉄などでも日本だったらA1口を出るとどんな施設があるかなど細かく書いてありますが、ヨーロッパではそこまで細かくインフォメーションがあることは少ないです。
日本人が昔からそういう気質だったのかはわかりませんが、歌川広重の浮世絵などを見ていると看板や札などが確認できるので気質として大きくは変わっていないのかもしれません。
ラミネーター、テプラの功罪
一方でサイン作りを簡単・便利にするアイテム、テプラやラミネーターが出てきてからのサインの作り方や考え方は、少し変わってきているように感じます。
デザインで文字の大きさは声の大きさに例えられることがあります、大きい文字は声が大きく、小さい文字は声が小さいという意味です。よく街中で見る「デザインの敗北」現象はいつも声をマックスにしてただ伝われれば良いという乱暴さを感じます、さらにテプラ・ラミネート文化が加わることで美しくないものの固定化、機微の欠如など、そこに美意識や受け手の知性に対する信頼を感じません。
テプラに関してはどんなものに貼られても発色の良さで非常に目立つ反面、対象物と一切同化しようとしないため商品の特性としては完璧ではあるものの、その分味気なさは他のどんなラベルよりも強いものとなっています。
最近は上記を解消するようなラベルプリンタ-テプラ「MARK」も販売されています。
デザインの敗北とは
デザインは敗北しているとも言えるし、敗北していないとも言えます。
敗北しているデザインは形状のデザインだけで終わっているため、そこにどのようなコミュニーケーションが生まれるか想像できていないデザインです。セブンイレブンのコーヒーメーカーの件で言えば、子供から老人まで使用者が幅広いコンビニエンスストアで使われる什器に、日本語が使われていないということが大きな要因でした。
デザインを敗北させないためには
デザインを敗北させることが変に流行ってテプラやラミネートで手作りサインを追加することが顧客満足への増加だと勘違いする人が増えることは非常に怖いと思います。日本の街並みは面白くはあるけど美しくはないし、その背景にある日本人の意識が乱暴さや雑さ、偽りの安全神話に根付いているのではと感じるからです。
自分のような末端デザイナーにどのようなことができるのかいつも考えていますが、そこには文化の醸成が必要でもはや一デザイナーとしての仕事ではないのかもしれません。
そんな中でも今後やはり忘れてはいけないのはデザインワークというものは意匠や形状を決定するだけの仕事ではなく、そこに発生するコミュニケーションまで考えなければならないということです。まだまだできていないところですがデザインが敗北しないために精進します。